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(1)
「後の世の為に書き残。長湯温泉発展にこれまで努力せしも残念乍ら、支那
事変、大東亜戦始まり、応召につぐ応召、追放のため、余が一生をかけし
事業も頓挫し・・・」
遺書かと思えるほど、悲痛な叫びを持つ一文をアルバムに張り、昭和
五十二年七十七歳でこの世を去った御沓重徳。
千有余年の歴史を持ちながら、山間僻地であるため広く世に知られることの
なかった長湯温泉を日本一の温泉として、世間に宣伝することは、彼の一生を
かけた目標であり、たった一つの希望だった。
(2)
御沓の胸にそんな希望が生まれたのは、昭和八年七月十八日の事であった。
九州帝国大学の松尾武幸博士は、門司鉄道病院の気賀澤副院長から、
長湯温泉の炭酸ガス濃度の高さを聞き、長湯温泉へと向かった。
九大の別府温泉治療学研究所に席を置き、ドイツのカルルスバードで温泉
治療学を学んだ松尾博士は、誰よりも長湯温泉の価値をよく知っていた。
「長湯温泉は世界稀有の含炭酸泉で、含有量千分の二・五あり、四十二度
の温泉である」 ・・・これが松尾博士の調査結果であった
当時。温泉治療学に百年以上の歴史を持っていたドイツでは、この頃すでに
炭酸泉が心臓病や脚気、神経衰弱に効果のあることを臨床データにより
知っていた。
ドイツで温泉治療学を学んだ松尾博士と、御沓との出会いが、この後の長湯
温泉を大きく変えていくのだが、その道は決して平坦なものではなかった
明治十三年に、温泉医学の父と言われるベルツが「日本鉱泉論」を著して
から五十三年後、松尾博士と御沓の二人三脚による長湯温泉での研究が
始まった。
御沓にとって、長湯温泉を広く世に知らしめるチャンスであり、松尾博士に
とって、ドイツでの勉強の成果を日本で試すことのできる絶好の研究材料
だった。
松尾博士から聞くドイツでの温泉治療の話は、御沓にとって驚くことばかり
だった。
たしかに昔から長湯温泉は疝気に効くと言われ、多くの湯治客が訪れた
時代もあった。
しかし、松尾博士は、もっと積極的に温泉治療を取り入れることを御沓に
教えた。
そのために、兎を使っての実験や、療養のために長湯を訪れた患者からの
データを取ったりと、長湯温泉の薬効を科学的に解明することから着手した
のである。
研究の後、松尾博士は長湯温泉を賛える歌を残した。
『飲んで効き
長湯して利く 長湯のお湯は
心臓胃腸に血の薬』
無色透明、驚異的な量の遊離炭酸ガスを含む長湯の
*二酸化炭素泉(単純炭酸泉)
低温ながらも、その効能は60年前から高い評価を受けていた。
(写真は御沓氏経営の旅館「愛泉館」にあった露天風呂)
*原文では、「純炭酸泉」とありますが、統一化のため、変更しております。
御沓は、松尾博士と相談し、自分の経営する旅館『愛泉館』の庭に共同
浴場『御幸湯』を建設する。
昭和10年10月3日に完成した『御幸湯』は、ドイツ式建築の堂々たる建物で
あった。
日本で温泉治療の基礎を築きたいと考えた松尾博士の夢を、九州の山の
中の温泉旅館の主人がかなえたのである。
長湯での松尾博士の研究は、多くの温泉医学を学ぶ人の心を動かした。
松尾博士の研究にひきつけられるように、何人もの学生や医学博士が長湯
を訪れ、中には長湯温泉の研究で博士号をとった人までいたという。
御沓は、松尾博士と出会って、目の前が大きく開けた気がした。
山の中の温泉地長湯は、一時は胃腸病に効くといわれ、歩けない病人が
馬の背に乗せられて運ばれて来る程、霊験あらたなか温泉であった。
ただ、山間僻地であるという地理的条件と、浴場が川端にあり、洪水の
度に浴場が流されたり、石垣が流されたりして、温泉に入れなくなるという
問題もあった。
明治に入って、洪水によって浴場が被害を受けることこそなくなったが、
道路事情は、大正末の大工事まで、改善されることはなかった。
【御幸湯】
長湯温泉の育ての親とも言うべき松尾博士の指導により、昭和10年に
共同浴場「御幸湯」を完成させた。ドイツ建築の洋館は今の時代にも
十分通用する建築物であった。
この写真は、御沓のアルバムに大切に保管されていた。
白熊(はぐま)と御幸湯、東西の文化の合成が意味深長である。
(3)
昭和8年、松尾博士の言葉に励まされ、御沓は長湯観光協会を設立し、
初めてパンフレットの作成に着手する。そのパンフレットには、『東方日本
の長湯温泉、西方ドイツのカルルスバード』という文字が、見られる。
北海道さえ知らない人がいる時代に、九州の中の中から、ドイツを見つめ
続けた御沓重徳。
パンフレットには「捨てられし山の霊泉長湯温泉は左記温泉治療学研究
の権威者実地御調査御研究にてよりはじめて世にしらる」と、嬉しさをおさえ
きれない言葉が並んでいる。
パンフレットに書かれた「左記温泉治療学研究の権威者」とは、松尾博士、
日本温泉協会理事・酒井谷平氏、九州大学教授・引地興五郎博士の三人
である。
御沓は、長湯を日本中に知らしめるためにと、野口雨情や与謝野晶子など
の文化人を長湯に招き、長湯温泉の素晴らしさを話し続けた。
松尾博士の、西洋の温泉地は、森や湖のそばにあり、美しい自然と温泉の
二つがあいまって、治療効果を上げるという話を聞き、長湯を日本のカルルス
バードにすることを決意する。
山歩きの好きな御沓は、長湯の山を歩き、ここに南アルプスのような森を
作ろうと考えた。
九州アルプスの高山植物を、権現山に移植するという作業が始まった。
だれが手伝ってくれるという仕事ではなかった。御沓の視線は、あまりにも
遠くを見過ぎていたため、御沓と同じ視線でものを見ることが出来るのは、
松尾博士だけだったのである。
当時、御沓が作った長湯温泉の絵葉書がある。
長湯の美しい風景が印刷された10枚組の葉書には、英語の文章が入れ
られている。ローマ字でさえ珍しかった時代に、世界を見ていた男ならでは
の心意気であろう。
今から60年程前に印刷された長湯温泉の絵葉書。10枚組の風景写真は
すべて地元の写真館「若山」さんの手によるものであった。その構図と
写真技術は全国レベルの優秀さであった。
(全10枚の内、2枚掲載します。画像をクリックされると、2倍の画像を
表示しますが、少々時間がかかりますので、ご了承ください)
【天恵の霊泉】
芹川の清流中に数千年来湧き出でる天然浴場、蟹湯と呼んで同時に
十人位入浴することが出来る。誠に健康的な天恵の浴槽だ。
「長湯温泉・天然浴場」〜と書かれています。(英文もあり)
(拡大)
【湯街は栄ゆる】
我が日本温泉治療学界に名ある諸権威によって将に国賓的価値ある稀有の
霊泉として認められ最近大いに発展した長湯温泉場の清観。
「長湯温泉・温泉場の一部」と書かれています。(英文もあり)
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御沓の招きで長湯を訪れた研究者は、その泉質の素晴らしさに一様に
驚きを示す。当時の日本温泉協会理事である酒井谷平は「お世辞でない。
国宝にもなるべき温泉なれば充分注意して泉源を保護せねばならぬ」と
いう言葉を残し、九州大学の引地與五郎博士は、「設備さえすれば世界
第一位、下っても第二位の温泉たる泉質である」と太鼓判を押した。
しかし、御沓の努力が水泡に帰す時がやってきた。日本が戦争を
始めたのだ。日本は戦時色一色となり、温泉どころではなくなって
しまったのだ。御沓の無念さはいかばかりであったろう。その悔しさが
冒頭の言葉である。
1977年、御沓重徳は、静かにこの世を去った。御沓の家のアルバム
には、当時の御沓の足跡ともいえる沢山の写真が残されていた。
写真だけではなく、松雄博士とともに研究したデータや、パンフレット、
絵葉書、沢山の文化人や研究者からの手紙など、そこにはたった
一人で未来を開こうとした男のすべてがギッシリと詰め込まれていた。
現在、その御沓の残した資料は、町を動かし、ドイツとの国際交流の
道を開いた。
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当時の長湯は汽車を乗り継いで小野屋駅あるいは豊後竹田駅から
来るのがバスで辿るのが最も一般的であったようだ。
このため、御沓らは各駅の駅長さんや新聞社を招き、長湯温泉の
すばらしさをPRした。そこには御沓の熱意に応えるかのように、
いつも松尾博士の姿がある。
(右から3人目が松尾博士)
九州大学の温泉研究所(温研)が長湯に設置された。ここでは、温泉治療
に訪れる患者はもとより、動物を使った研究も続けられた。
その成果の行方が気掛かりだったのだろうか、御沓は石田博士らの助手
を自ら買って出た。
【うさぎを使った研究を御沓も手伝う】
(拡大)
【研究所のスタッフ、左が石田博士、その後ろが御沓】
『時代を先取りしたPR戦略』
この写真に焼き付けられている企画力と実践力に目を向けずにはおられない。
上の写真は福岡博覧会で長湯温泉をPRしている村の有志たち。
「ウンスケに一杯の炭酸泉を入れてコルクの栓をし、それを針金で縛って小野屋駅まで
送った」と、当時を懐かしむ田尻勝さん。
昭和2年、別府の温泉王と呼ばれた油屋熊八(中央)が、作家の田山花袋(その右)を
連れて長湯を訪れた時のもの。
これらの写真にある村人たちの自信にあふれた顔付きがとても印象的だ。
【夢追い人たちの挑戦】p4〜11 終わり....このページのtopへ