【小目次】
1)長湯温泉の概要
2)長湯の化学成分
3)中川氏と湯原温泉
4)天満湯と薬師如来
5)藩営温泉「御前湯」
6)疝気によく効く川平湯
7)葛渕温泉
8)現在の長湯温泉

1)長湯温泉の概要

長湯温泉群は、久住連山第二の高峰「大船山」に源をもつ芹川がその支流、
社家川と合流する地点から上流約4キロの間の芹川の河床近くに帯状に
分布している。利用泉源は28未使用泉源は3、合計31の泉源を持っている。
 (1995年当時)

湧出量は豊富で、毎分2.5トン余りである。湧出形態は、自然湧出泉もある
が、利用泉源はすべて掘削泉で、その深度は45m〜300mの範囲で、温泉
水はすべて自噴している。
泉温は平均値44.7度で、近年の掘削泉は50度前後のものもある。

泉質は重炭酸イオンとアルカリ土類金属(カルシウム、マグネシウム)を多量
に含んでいるので、「重炭酸土類泉」とされている。長湯温泉の特徴は、二酸
化炭素を多量に含んでいることで、湯原浩三・瀬野錦蔵の著「温泉学」(昭和
44年)には、日本一の含炭酸泉として紹介されている。

また、この温泉は鉄分も多量に含有しているので,泉質を一口で言えば「含炭
酸・鉄・重炭酸土類泉」となる。このように炭酸泉・鉄泉および重炭酸土類泉の
三つの泉質を同時に兼ね備えた温泉は、温泉療養の上で、大変貴重である。

療養効果があると言われる適応症を挙げれば、心臓弁膜症、心筋障害、高血
圧、慢性消化器疾患、神経症およびリウマチ性疾患などがある。

2)長湯の化学成分

温泉水にかぎらず、地下水、河川水などの陸水は、周囲の岩石や土と
化学反応を起こし、それらを分解して各種の化学成分を溶存する。
温泉は温度が高いので、その化学反応は地下水に比べてより活発になり
さらに長湯温泉の場合、含有する二酸化炭素が岩石、土壌の分解を促進
するので、溶存成分は増加する。

溶存する主要成分は、陽イオンとして、ナトリウムイオン・カルシウムイオン・
カリウムイオン。陰イオンとして、塩化物イオン・炭酸水素イオンおよび硫酸
イオンがあり、さらにイオンにならないけい酸がある。

けい酸をのぞいたイオンを合計したイオン総量は、長湯温泉の場合、1リットル
中に2.5〜4.5グラムの値になり、通常の地下水の20倍ないし40倍になる。
カルシウム、マグネシウムおよび炭酸水素の三種のイオンがイオン総量の
80%をしめる。これが、長湯温泉が重炭酸土類泉と呼ばれるゆえんである。

長湯温泉のマグネシウム量がカルシウムに比べて大きくなるの要因は、
次の二つが考えられる。

1)地下にマグネシウムを多量に含む岩石あるいは鉱物があり、それが温泉
  中に湧出される。
2)地下の岩石からはカルシウムがマグネシウムよりも多く溶出されるが、
  温泉水が湧出する途中で、カルシウムが炭酸カルシウムを生成して沈殿
  する。その結果、マグネシウム量が卓越する。

このどちらかの現象が地下で起こっているものと考えられるが、現在のところ
その機構を説明する根拠になるものがない。

長湯温泉が温泉療養の見地からも、地球化学的な立場からも貴重であるのは、
それが多量の二酸化炭素を含んでいることである。

温泉中に含まれる炭酸物質は三つの化学形態を持っている。一つは二酸化
炭素(炭酸ガス)で、これはビールやサイダーに含まれているものと同じ気体
として溶けている。
気体であるので当然、温度が高くなればそれだけ溶解量が減少してくる。

長湯温泉では、いずれの温泉も飽和以上にこの気体を含んでいるので、大気
中に湧出する場合、泡をともなって、まるで沸騰しているように見える。そこで
別名泡沸泉ともいわれている。

もう一つの形態は、炭酸イオンでこれはベーキングパウダーと同じ成分である。
水中の炭酸イオンは、水中からガスが失われてペーハーが高くなれば、一部が
炭酸イオンとなって、これがカルシウムと結びついて沈殿する。
長湯温泉の場合、鉄を含んでいるので、この沈殿物は、赤褐色になる、これが
湯垢と呼ばれるもので、これを取り除くためには、酸を加えれば容易にとれる。

3)中川氏と湯原温泉

長湯温泉は、もともと湯原温泉と言っていた。
湯原温泉の歴史は「風土記」の昔(八世紀半ば)に、『二つの湯の川あり、
神の河(寒川、のちの芹川)に会えり』と記されているその湯の川にさかの
ぼると考えられるが、その詳細は知る事はできない。
「湯原温泉之事」(甲斐家文書)によると、天正五年(1577)12月12日、
朽網宗暦から子息の左近太夫に与えた「条書」に、温泉の修理や掃除など
について書かれていたようであるが、その条書は朽網氏滅亡の時に失われ
てしまった。
しかし、朽網氏によって直入郡が支配されていた時代には、湯原温泉も、
朽網氏によって管理されていたことはわかる。

長湯の伝説の一つに「権現山と横枕の湯」という話がある。
それによると、昔まだ直入地方が泥海の中であったとき、偉いお坊さんを
乗せた大きな船が大嵐に遭い、山にぶつかって押し戻され転覆してしま
った。お坊さんと船とは石となり、それが船山であり、この山から男女の
神様が下りてきたため、この山を権現山と呼ぶようになったと、権現山の
由来については言い伝えられている。

その後、この地方に住む美しい娘が毎日船山の石の仏様に、生まれつき
弱い体を丈夫にしてくれるようお参りをしていると、あたりが後光に包まれ、
娘の足元に薬師如来が現われ、その足元からお湯がわいた。このお湯に
つかった娘はすっかり元気になり、仏様から子供まで授かった。そこで、
長湯の湯は「子宝の湯」として知られるようになった。と、この伝説は続いて
いる。
この伝説がいつ頃から言い伝えられたものかわからないが、中川氏が藩主
の頃は、子宝の湯というより、慢性疾患や内臓疾患によく効く温泉として、
大切にされていたようである。中川氏の時代にも、藩が湯屋を建設し、藩
から給米を支給する湯守がおかれ、ほとんど藩営温泉と言っていい位で
あったという。
その頃の湯原温泉は、藩主である中川氏はもちろん、藩士にも湯治を
認めており、藩営保養所とも言える二の宿、三の宿が建設され、御茶屋も
建てられたという。

4)天満湯と薬師如来


この境内に「湯ノ河原湯」があったと
される。
いまは、町民の憩の場となっている。
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湯原天満社前の天満湯には、薬師堂があり、石造りの薬師如来と地蔵尊
が祭られている。この地蔵尊は、六代藩主久通の側女で京都生まれの
陽光院が建立したといわれている。
久通自身入湯好きで、何度も長湯に湯治に通っていたようであるから、
陽光院が地蔵尊を建立したとしてもおかしくないが、言い伝えによると、
陽光院が胃腸病で苦しんでいたときに枕元に薬師如来が現われ、「湯原に
胃腸病によく効く温泉がある」と告げたという。

長湯温泉はその昔、湯原温泉と呼ばれ、その中心に
位置していたのが「湯ノ河原湯」であった。
これはいまの天満神社境内にあったとされるが、
古老の話によるとその記録を実証するかのように
土を掘り起こしていくと古い湯アカが出てくるという。

そして、ここで湯治をし病を致した陽光院が報恩のため
建立したのがこの薬師如来像であったとされる。

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そこで、陽光院は湯原に来て湯治をし、全快することができた。その報恩に
報いるため、この地蔵尊を建立したのだという。
その事から、陽光院もこの天満湯に湯治に来ていたのではないかと推測
される。
天満湯は、古くは「湯ノ河原湯」と呼ばれ、現在の湯原天満社横の山手に
あったと言われている。宝永三年(1706)七月に、温泉を取り込んだ御茶屋
が建設され、これが始めての藩による湯屋・御茶屋の建設であったと言わ
れている。また、前の芹川には、長さ十二間(約21.7m)の橋が「上より
御普請」で掛けられたという。

しかし、46年後の宝暦二年に、大雨による土砂崩れでつぶれてしまった
のだという。現在は湯原天満社前に建てられている。

5)藩営温泉御前湯

宝暦二年に湯ノ河原温泉にあった温泉(現在の天満湯)がつぶれたため、
上手の川端にあった出湯を浴場にすることになった。
このため土俵で湯をせき止め、片流れの屋根や壁を作って藩士の入湯場
としていた。
この温泉は、場所や当時の文献である「湯原温泉之事」などから、現在の
カニ湯が川中に取り残される以前の湯ではないかと考えられる。

その後,「中川寛得軒様御見立て」で字薮田に新湯が作られることになった。
安永十年(1781)、普請は藩によって行われ、設計は中川寛得軒であった。
それを記念して「御前湯」と呼ばれることになったが、この御前湯への道を
取り付けるために水田をつぶさなければならなかった。

ところが、こうして出来上がった御前湯も、川端に建てられたお湯であった
ために、幕末までの65年間に、湯小屋や湯箱、石垣等の部分流出や全
流出は7回を数え、石垣は度々流出したという。
その度に湯原組民は、修理工事に借り出されなければならなかったので、
弘化四年(1847)に、設計変更をして、湯箱を二尺(約66センチ)高くする
ことになった。
この工事は約一ヶ月の大工事であり、豊富な湯量を利用して打たせ湯を
二口作っている。

6)疝気によく効く川平湯

湯原組大庄屋役宅の下手の川原にあった温泉は、疝気(腰や下腹の内臓
が痛む病気)によく効くということで、古くから湯原組中はもとより、阿志野
や梨原・今市あたりからも湯治に来ていた。

この川平湯は、川端に芝堰をして湧出する温泉をためるという原始的な
温泉であった。湯屋までの道も悪く、少し川が増水すると入湯できなく
なったり、雨が降ると道が歩きにくいというものであった。
老人や他所から来た入湯客は入湯できず、滞在費がかさみ大変困って
いたという。
そこで、地元の湯原村では、このような実情を藩に訴えて、湯屋普請を
願い出ていた。このような地元民の願いが聞き入れられ、工事開始となった
のは天保十三年(1842)のことであった。
まず、洪水のことを考えて、湯の取り入れ口を三間程岸に寄せ、水田で
あったところを切り開き、そこに湯箱を置くことにした。

しかし、もともと川中の湧出で湯がぬるかったのに、その湯を桶で三間も
流すため湯がいっそうぬるくなったため、温泉之湧出口での水の混入を防ぐ
ために対岸を切り崩し、水の流れを変え、湯口を石垣で囲うことになった。

萱葺屋根の川平湯は、湯屋としては立派なもので、慢性病にも効くとあって
近隣の人気を、湯治客が多くなり、天宝十四年には湯箱が増設されたという。
しかし、この川平湯も御前湯同様縦桶が流出したり、石垣が流出したりして、
自然との戦いが続いたという。

7)葛渕温泉

葛渕温泉は、湯原温泉のような資料は残っていないが、藩主が湯治に訪
れたことは、湯原温泉と同じである。
岡藩主で最初に領内巡視に出掛けたのは、四代藩主久清だったが、この
久清が葛渕温泉にお湯屋を立てたのは、寛文十一年(1671)である。
「中川史料集」によると、湯原温泉同様藩営温泉的性格の温泉だったと
考えられる。
久清は、寛文六年(1666)には、幕府に隠居所を願い出て久恒に家督を
譲り、入道して入山と号している。入道後は、しばしが大船山に登ったと
伝えられている。このようなことから、大船山登山の途中の休憩所として、
葛渕温泉の湯屋建設となったと思われる。

元禄十五年(1702)の台風の時、葛渕の湯屋は洪水によって流出して
しまう。葛渕の近くには、横枕や湯田などの温泉が湧出していたが、
明治になって長湯村役場に「葛渕温泉破却の儀申し上げ」という湯筋を
横枕湯に移して葛渕湯を破却したという届けが出されている。
おそらく葛渕湯は元禄十五年の洪水後、藩の補助のもとに再建された
が、慶応元年頃湧出量が減ったか何かの理由で、破却されたものと
見られる。

8)現代の長湯温泉


昭和10年前後のガニ湯と周辺の風景。この当時、ガニ湯は
まだ、その湯船の中から温泉が自然湧出していた。その様子
がよくわかる。一方、現在の長生湯の泉源が、ガニ湯と橋の
中間にあるのが見える。当時、泉源はそのほとんどが自然
湧出のもので、川の中でしか確保できなかったのである。
洪水のたびに、竹の桶を新設しなければならなかった
所以だ。
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長湯温泉は、もともと湯原温泉と呼ばれていたのだが、昭和11年(1936)
末頃から桑畑の温泉を含めて長湯温泉と呼ばれるようになった。
現在、公営の温泉浴場としては、湯原に、「長生湯」「天満湯」「御前湯」の
三つがあり、他に最近になってボーリングして湧出した千寿温泉、榎田温
泉、しづ香温泉などの私営温泉ある。
個人所有の浴場は、旅館の内湯11ヶ所、その他五ヶ所、共同二ヶ所が
ある。(冊子製作当時の数)
自然湧出の泉口も沢山あるが、「ガニ湯」もその一つである。
「ガニ湯」は、ユトージ(含有物が結出してできた塊離)をそのまま湯舟に
した温泉であり、甲羅のような岩から炭酸泉が泡を吹きながら湧く姿が
カニに似ていたためカニ湯と呼ばれた。(カニ・ガニの二つの呼称がある)
一時は泉源が枯渇していたが、現在はまた湯が満たされ、観光資源と
なっている。

自然の湯とじ(湯アカ)が湯船となり、その中央から
天然の炭酸泉が湧出している「ガニ湯」
これが記録に残る最も古い「ガニ湯」の写真だ。

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温泉町としての湯原は、物品販売の店よりも温泉宿が先に建っていた。
これは岡藩時代から、藩政下の保護のもとに、温泉開発が行われたため
であり、湯原地区の特殊な成り立ちを表している。
湯原温泉は、湯治の温泉である。古い記録「湯原温泉之事」(甲斐家文書)
によると、「阿志野、梨原、今市より疝癪によろしくと・・・。近年は緒方郷
井田にかけ老人、病身者で歩行できない者は、馬、かごで来る入湯人が
次第に多くなった。」といっている。
このように往時は温泉の薬効によって多くの湯治客が訪れた。しかし、
山間の湯治場であり、交通の便がよくなかったため、近隣の人には親しま
れながらも、広く世には知られなかった。
ところが、昭和6年の夏頃より、九大別府温泉治療学研究所が湯原温泉
を調査研究の結果、極めてまれな温泉であることが、広く世にあきらかに
された。
これに力を得て、湯原・桑畑地域の温泉を統合し、長湯温泉協会を結成、
パンフレットを作成するなど、宣伝らしい宣伝を初めて行ったのである。

長生湯の新築間もない頃の写真。ガラス窓を多用し、
清潔感と通気を配慮したこの建物は、威厳という点でも
十分通用するほどの誇りを感じさせられる。
当時は、丸長旅館との間に橋が架かっていた。
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背景の丸山には、現在のような植林もみられない

長生湯と同じ頃に建てられた御前湯。
長生湯とは、対照的にバルコニーのある洋館づくり
というのが、なんとも洒落ている。
地域が、温泉にいかに愛着と誇りをもっていたかが
伺い知れる。

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 宝永3年(1706年)江戸時代、豊後竹田の岡藩主、中川侯のお湯屋が作られた。
 藩営の内湯完備の「御前湯」である。
 現代で言えば、さしづめ「岡藩長湯保養所」であろう。ガニ湯も今の天満橋も
 描かれている貴重な資料である。
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